どうして僕らはロボットアニメを語りたくなるのだろう?
ロボットアニメ。ロボットアニメとは、ロボットが登場するロボットアニメのこと。
日本で初めて制作されたアニメーションは言わずと知れた手塚治虫の『鉄腕アトム』であり、これはロボットアニメだった。僕らが大好きな巨大ロボットが初めて登場したのは永井豪の『マジンガーZ』。それから、『機動戦士ガンダム』『エヴァンゲリオン』……と続くように、ロボットアニメはいつだって日本のアニメーションの中心的存在にあった。
僕らが愛してやまないロボットアニメ。その魅力は一体どこにあるのだろうか。
ロボットの美しさ。戦争の醜さ。正義と悪の対立。そんなの、挙げるとキリがない。それはまるで『伝説巨人イデオン』の全方位ミサイル発射のようだ。
つまり、一つの魅力が複数の要素の魅力と絡まりあって、ロボットアニメという一大ジャンルを構成している。
だけど、こうしたロボットアニメによる魅力の全方位ミサイル攻撃を受けている僕らには、一つの決まった行動パターンが存在する。
どうしても、語ってしまう。
語りたくなってしまう。
ロボットアニメ以外のアニメと比較したらそれはよくわかる。
「この作品は○○をテーマにしてて」
「いやいや、そのシーンはそういう意味じゃないだろ!」
「このロボットのこの肩のフォルムが女性っぽくていいんだ」
「なぜこのとき主人公はこんなこと言ってしまったのだろう……」
ロボットアニメの語りは尽きない。
なぜロボットアニメは僕らを語らせようとするのだろうか?
以下の2つの仮説を考えた。
①歴代ロボットアニメの存在がプレッシャーに
先述した通り、ロボットアニメはいつだって日本のアニメーションの中心に存在していた。
それは日本のアニメーションのエポックメイキングが、ロボットアニメによりもたらされていたからだ。
富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』はアニメを子供のものから大人のものへ、世の価値観を変貌させた。庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』が発明した、視聴者に物語の結末を投げかけるというスタイルは、アニメの枠組みを越えた一つの「芸術」の域にまで足を踏み入れた、と言っても過言ではないだろう。
ロボットアニメは日本のアニメーションの新時代を常に切り開いてきた一大ジャンルなのだ。
このような歴史をバックグラウンドにして、ロボットアニメファンはロボットアニメに対して常に「新たなエポックメイキング」を求めているといえる。それは、言い方を変えればロボアニファンは目が肥えているのである。
こうしたロボアニファンによる期待、もしくは無言のプレッシャーこそが、語らねば納得のできないような濃密な作品を多く生んでいる要因なのではないだろうか。
目の肥えている僕らは「ただの良い作品」では満足できない。いや、もちろん良い作品に出会ったときはモーレツに感動するのだけど、それ以上のエポックメイキングを求めているのである。もちろん作り手であるアニメーターもそのことを重々承知だ。だから、ロボットアニメは一枚も二枚も工夫が凝らされている作品が多い。
だから、僕らはロボットアニメを観た際は、他のロボットアニメと比較したりしながら、ついつい語ってしまうことが多いのではないだろうか。
②ロボットが登場すると物語が複雑に
ロボットが登場するアニメのことをロボットアニメという。となれば、そこには必ず「なぜロボットが登場するのか?」という問いがあるはずだ。
また、ロボアニに欠かせないのがロボット同士の戦闘。ここには、同じように「なぜロボットが戦うのか?」という問いが生じてくる。
ロボットアニメは必然的にその二つの問いを物語の中で解消しなければならない。
さらにいうと、ロボットアニメをつくるとなると、「なぜロボットはロボットではないといけないのか?」という問いも生じてくる。というのは、僕らがロボットアニメと言われて想像するのは、二足歩行型の、人が搭乗するロボットだからだ。
「なんで四足歩行型じゃなく、二足歩行なの?」
「なんでヒトの形をしているの?」
「なんで人がコックピットに乗らないといけないの?危ないじゃん」
こんな疑問が物語の中で解消されている必要がある。
往年のロボットアニメ(特にリアルロボットと言われるジャンル)では、こうした疑問に対する答えを用意してきた。
『機動戦士ガンダム』ならば、「ミノフスキー粒子というものがあってだな…」と説明したくなるし、『新世紀エヴァンゲリオン』ならば、「あれはアダムという使徒が…」とロボアニファンならばついつい説明したくなる話題だ。
つまりは、ロボットアニメは「ヒト型の、人が登場するロボットがカッコいいに決まっている」という一種のロマンティシズムから生まれている。ロボットアニメはそのロマンティシズムを物語の中で合理的に説明しないといけない制約を常に内在しているのだといえる。
だから、物語が複雑になる。物語の設定がごちゃごちゃとしてくる。横文字が多くなりすぎてしまう。その行き過ぎた例が、『キャプテン・アース』だろう。
ロボットデザイン、世界の設定は王道ど真ん中を走っているのだけど、ストーリーが複雑すぎる。いや、多分複雑ではないとは思うんだけど、横文字が多すぎて。アースエンジンインパクター、ライブラスター、キルトガング、エゴブロック、リビドー、エンタングルリング、デザイナーズチャイルド……ああ、あとテレパシーキスとかもあったな。っていうかそもそも用語が「STAR DRIVER 輝きのタクト」とかぶりすぎぃ!あ、でも監督・脚本が同じだからなぁ。となれば、これは富野監督の「ダンバイン・エルガイム方式」と一緒だな。
なんて、話になる。
こうしてロボットアニメを語らせたら止まらない、なんて人が大量生産されていく。それはロボットアニメの歴史、ロボットアニメに内在する制約から生まれた産物にちがいない。
今夜もどこかで、ロボアニを語る夜会が開かれていることだろう。どうして僕らはロボットアニメを語りたくなるのか。そんな答えの出ない問いを僕らはずっと考えていたい。
writer:いなだみずき